大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和43年(ワ)10403号 判決 1969年11月25日

原告 渡辺ヨシ子

右訴訟代理人弁護士 小林辰重

被告 伊藤英助

右訴訟代理人弁護士 植田義昭

主文

原告の請求は、いずれもこれを棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し九五万円及びこれに対する昭和四三年九月一三日から完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、請求原因を次のように述べた。

「一、被告は自己を債権者、原告を債務者として、八〇万円の手形債権を被保全権利とし、昭和四〇年八月七日東京地方裁判所昭和四〇年(ヨ)第六四三三号不動産仮差押決定を得て、同日原告所有の東京都千代田区麹町六丁目二番地一八家屋番号同町二番二三木造瓦葺二階建診療所兼居宅床面積一階二二、六二坪、二階二一、〇〇坪(以下本件建物という)に対しその執行をした。

二、被告は、昭和四一年六月二日東京地方裁判所へ同庁同年(手ワ)第一八九六号約束手形金請求事件の本案訴訟を提起し、同年一一月二二日言渡された被告勝訴の仮執行宣言付判決に基づき、本件建物に対し強制執行をした。

三、右本案訴訟はその後原告が東京高等裁判所へ控訴したので、同裁判所は同庁昭和四一年(ネ)第二六三三号約束手形金請求控訴事件として受理し審理した結果、同四三年二月一五日原告勝訴の判決を言渡したが、被告から上告があり、同年七月一九日上告棄却となって確定した。

四、右仮差押申請事件の本案訴訟が原告敗訴と確定したので、被告は原告に対し右仮差押の執行及び右仮執行宣言付判決に基づく強制執行によって生じた原告の損害を賠償すべきである。

五、仮に、原告が本案訴訟において勝訴し確定したというだけで右仮差押の執行につき、被告に賠償責任がないときは、被告は次の過失により、仮差押の執行を不法にしたのであるから、責任を免れえない。

(一) 被告のいう被保全権利は、額面八〇万円、支払期日昭和四〇年七月三一日、支払地東京都港区、支払場所北海道拓殖銀行渋谷支店、振出日昭和四〇年六月三〇日、振出地東京都港区、振出人白岩敏伯、受取人兼第一裏書人原告、被裏書人被告と記載する約束手形債権(以下本件手形という)であるが、原告の右裏書は新原道義が勝手に代書し押印したものであるところ、被告は右裏書の署名、印影が原告のそれと異なることを知り得たにかかわらず、権利があるものとして仮差押の執行をした過失がある。

(二) 仮に新原道義の行為が原告の意思によるものとしても原告には裏書をなさなければならない原因関係がないのであり、このことは被告も十分知り得たにもかかわらず過失により被保全権利があるものと誤信し、仮差押の執行に及んだものである。

六、原告は、被告の不法な右仮差押の執行により、次の損害を蒙った。

(一) 原告は本件建物において、南竜堂という名称で産婦人科医院を経営していたところ、右医院は大正三年から始められた名声のある医院であり、原告の仮差押の執行によって営業上の信用を害せられ、これを金銭に見積り二〇万円相当の損害を受けた。

(二) 原告は株式会社東京相互銀行から二四〇〇万円を借り受け、その担保として本件建物及び夫渡辺泰綱の所有であるその敷地に抵当権を設定していたところ、被告が仮差押の執行をしたため右銀行から弁済の催促がきびしくなって、原告はやむを得ず昭和四二年二月二五日本件建物をその敷地と共に二五八〇万円で売却し、右銀行その他の債務者に弁済したが、本件建物はもともと五八〇万円と見積られながら、被告の仮差押があったために、通常の取引価格より一割程度安く評価されて、原告は少くとも五〇万円の損害を受けたのであり、右損害は特別事情による損害であって、被告はこれを知っていた。

七、前記建物が時価より安く売れたのは、被告のなした仮執行による強制執行もその原因の一つである。尤も本件については仮差押が先行しているから、仮差押による損害が何らかの理由により認められないとすれば、原告は被告に対して、仮執行による損害として五〇万円を請求する。

八、被告の原告に対する第二項の本案訴訟は、請求権がないのに過失によって請求権があるものとして提起した不当な訴訟であるが、原告は右訴訟に応ずるため、弁護士に訴訟委任した結果、費用として第一審五万円、第二審五万円、そして訴訟完結による報酬として一五万円を支払い、同額の損害を蒙るのやむなきにいたった。

九、よって、原告は被告に対し、不法行為に基づく損害金九五万円及びこれに対する不法行為の後である昭和四三年九月一三日から完済にいたるまで、民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。」

被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、次のように答えた。

「請求原因第一、二、三項は認める。第四項以下は、本件仮差押の被保全権利が原告のいう手形債権であることを認める外、すべて争う。」

証拠 ≪省略≫

理由

一、請求原因第一、二、三項の事実、殊に本案訴訟において被保全権利のないことの確定した事実は、当事者間に争いがない。

二、仮差押債権者が本案訴訟で敗訴し、被保全権利のないことが確定した場合、仮差押債権者は仮差押の執行から生ずる損害につき、無過失責任を負うべきであるとする見解は十分傾聴に値すると思うけれども、判例は従来実体上権利のない者が仮差押をしても、権利があると確信しそう信ずるにつき相当の理由があれば、仮差押債権者に過失がないとしている。殊に最高裁判所は、昭和四三年一二月二四日最集二二巻一三号三四二八頁の判決で、過失責任説を踏襲することを明らかにしたから、下級審である当裁判所としては、右見解に従って判断するのが相当であろう。

従って、被告に原告のいうような無過失責任を負わしめることはできないが、被告に過失があればその責任を追求できるから、その点を以下検討することにする。

三、思うに、被保全権利が存在しないのに、存在するものとして仮差押の申請をし、その結果なされた仮差押命令の執行によって、仮差押債務者に損害を与えたら、特段の事情のない限り、仮差押債権者に過失があったものと推定するのが相当であろう。

そこで、特段の事情の有無につき案ずる前に、まず本件手形の振出された事情及び原告が右手形に裏書した経緯を考えてみると、次のようになる。即ち

≪証拠省略≫によると、①被告は昭和四〇年六月二六日白岩敏伯との間で、白岩敏伯は神奈川県小田原市十字三丁目五五一番の六宅地五四坪九合一勺及び同地上所在木造亜鉛葺平家建約一〇坪蜂蜜店舗一坪(以下本件物件という)を、昭和四〇年六月三〇日までに三三〇万円で買戻すことができるが、白岩敏伯がやむを得ず右買戻期限を延長する場合は、遅くとも同年七月三一日まで延長し、爾後日歩一六銭の割合の損害金を買戻金額に加算すること、そして買戻期限を延長したときは、白岩敏伯は当時右建物に住んでいたその弟を同月一五日までに退去させて被告に右建物を明渡すべく、若しこの日までその実行ができないときには買戻期限延長の特約は効力を失い、被告は本件物件を自由に処分することができるけれども、人が住んでいるため処分価格が安く、そのため買戻金額に達しないときは、その差額を損害金とし、白岩敏伯及び原告はこれを連帯して被告に支払わなければならない、そして右損害金引当のため、白岩敏伯は被告に対し、支払期日いずれも昭和四〇年七月三一日、額面八〇万円及び七〇万円とする二通の約束手形を振出す旨の契約を締結したこと、②白岩敏伯は右約旨に則り、右契約と同時に二通の約束手形を振出し、原告は新原道義に提示して、右手形に裏書の記名、押印をさせた上、これを被告に交付したところ、本件手形が額面八〇万円の右手形であることが認められ、これと異なる原告本人尋問の結果は採用しない。

四、すると、本件手形の裏書は原告の意思によりなされたことが明らかであるから、被告は本件手形の所持人として、裏書人である原告に対し手形債権を有する点多言の要がない。

ただ本件手形は、建物に人が住んでいるため処分価格が前記買戻金額に達しないで、被告に損害が発生した場合に備え振出されたものであるところ、白岩敏伯の弟は約束の昭和四〇年七月一五日までに本件物件から退去しなかったから、本件物件は約旨に基づき被告が自由に処分できることになりながら、被告はこれを処分しないでそのまま所有していたから、前記買戻金額との差額つまり契約当初予想された損害の発生をみるにいたらなかったことが、前掲証拠により認められる。従って、本件手形は原告がいうように原因関係を欠く手形であるということになろう。

五、ところで、原因関係のないことが一見明白であり、手形を保持すべき何らの正当な権限を有しないのに、偶々手形が自己の手許にあることを利用し、裏書人から手形債権の支払を受けようとすることは、一般に許さるべきことではないけれども、本件契約の内容は極めて複雑にして、容易に理解し難く、しかも本件手形の裏書が、本件物件を定められた期限に明渡さなかったことに対する制裁的意味合を多分に含み、であるからこそ支払期日を昭和四〇年七月三一日としたものと思われる本件の場合、被告が本件手形を行使したとしても強ちこれを不当とはいえない。

しかし、原告は被告が手形の履行を求めた場合、これを拒絶できる権利を有するこというまでもないので、原告は本件仮差押命令に異議を申立て、その異議訴訟において右権利を行使するか、又は本案訴訟において抗弁としてその主張ができる。

その結果、原告の主張が認められて事情が変更し、仮差押の存続が不当となったのに、仮差押債権者である被告が仮差押の執行を解放し、又は仮差押の申立を取下げないで、故意又は過失により原告に損害を与えたならば、原告はその時こそ被告に対し、不法行為による賠償請求ができよう。

六、ところが≪証拠省略≫によると、原告は本案訴訟において右主張をなし、昭和四三年二月一五日言渡された控訴審判決においてこれが認められ、原告勝訴の判決となったのであるが、被告が右申請変更を理由に本件仮差押の執行を解放し、又は仮差押の申立を取下げる以前、既に昭和四二年二月一五日原告は本件建物をその敷地と共に任意売却したことが、≪証拠省略≫により明らかであるから、被告の不法行為による損害の発生をみるまでにいたらなかったものといわなければならない。

七、さすれば、本件仮差押の執行は、被告に保全権利がないにかかわらずなされた違法なものではあるけれども、仮差押債権者に過失が認められない特段の事情がある場合に該当し、従って仮差押の執行が不法であるとし、被告に対し賠償を求める原告の本訴請求は失当というべく、その余の点につき言及するまでもない。

八、本案訴訟がそれ自体不法行為の要件を備えるとき、これに応ずるため必要になった弁護士費用は、その不法行為により通常生ずる損害として、賠償請求ができる。このこと自体異論はあるまい。

しかし、被告の本案訴訟は本件手形の所持人である被告がその裏書人である原告に対し、手形債権の行使のため提起したもので、何ら違法性のないこと右に述べたところにより明白であるから、原告のこの点の請求も理由がない。

九、その外本件建物が時価より安く売れたのが原告のなした仮執行に原因することの適確な証拠もないから、原告の本訴請求はいずれも理由がなく、すべて棄却するの外なく、民事訴訟法第八九条を適用し、主文のように判決する。

(裁判官 田畑常彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例